2014年11月6日木曜日

interview : SINKICHI(budryukyu/Futurology/UREI/Churashima Navigator)


自分がSINKICHIさんとお会いしたのは、1st Albumリリースツアー時でした。 沖縄唯一のベースミュージックイベント、BUD RYUKYUでしたね。 それから約2年半、今回こうしてGURUZのコンピレーションに収録出来た事、そしてマスタリングも手掛けて貰った事、とても嬉しく思ってます。
それでは、質問に入ります。

1.現在、沖縄に居を構え音楽活動に従事されていますよね。 出身は京都ですが、沖縄に移住されたのは何か理由があるのでしょうか?
A.1999年末のミレニアムに沖縄の辺戸岬で開催された「SUNSHINESHRINE IN OKINAWA」というPARTYに当時やっていたSOFTで招かれ、その前後一ヶ月程の沖縄滞在で完全にやられましてこの島に住もうと決めました。 というか、来なさい〜という感じでした。それから7年もかかりましたが。。。
2.遡るとこれまでに京都を代表するバンドSOFTのドラマー、AOA、そして数々の国内外のフェス、パーティ経験を経て現在はDJ NU-DOHと共にチュラシマナビゲーターの活動という経緯がありますが、そういった音楽的な自身の歴史から現在までの気持ちの変動(音楽性の変化等)についてお話頂けますか? ベースミュージックという視点も含めて、お話頂ければと。
A.小学生の頃から父にMILESDAVISやPINKFLOYD等を聴かされていたのですがまだその頃は「オーディオ/ステレオって面白いなあ」程度にしか感じていませんでした。 初めて音楽にハマったのはYMOのBGM/テクノデリックとハービー・ハンコック/ロックイットでした。 その後いろいろありまして一気にパンク/ハードコアにどっぷりで気がつけば周りは全員パンクス/スケーターみたいになる中で繋がった友達や聴いている音楽/アーティストから様々な社会問題(戦争/核/貧困/環境問題)やアナキズム、ラスタファリズムを知りました。ぺーぺーのパンク少年だった訳です。。 転機は90年代初頭にイギリスやアメリカに行った際、レイブやサウンドシステムを体験して一気に気持ちがポジティブになったというか、日本ではパンクスが未だラモーンズやクラッシュの真似事をしている時にUKのパンクスはACID HOUSEで笑顔で踊っている、という有る意味パンクな事にアナーキックさを感じました。 その頃から日本でもエッジなクラブでテクノやジャングル等が聴けるようになりどっぷりそこに浸かりながらSOFTに参加する事に。 DJはまだ自分にとって敷居が高かったのでロックバンドにテクノ的な要素を持ち込もうとした訳です。 その後国内でもレイブ/ダンスミュージックが盛んになりはじめSOFTやAOAで人前で演奏させてもらえるようになり数多くの素晴らしいDJに出会い音楽の幅が急激に広がっていきました。
ベースミュージックという視点なのですが、やはりまずはサウンドシステムありきですね。 長年でかいサウンドシステムのベースで踊る体験を通して自身の音楽的趣向がかなり低音よりになってしまいましたが、最近は小さいスピーカーや生音で成立する音楽が好きです。鼻歌で歌って踊れるような。

3.チュラシマナビゲーターの音楽性ですが、コンピ収録曲も然る事ながらライブでも三線に歌と沖縄のエッセンスが随所に盛り込まれていますが、こういったアプローチはやはり沖縄に住んでいるから得たインスパイアと言えるのでしょうか? また、チュラシマナビゲーターとしてのスタンスや制作スタイルについてもお聞かせ下さい。
A.民謡やエイサーはここでの生活とは切っても切れないもので日常的にいつも響いています。そして相方のDJNu-dohは生粋のウチナンチュなのでやはりどうしても唄三線が入ってきますね。 琉球音楽はあまりにも奥深くナイチャーの自分には今だ未知の領域が大きすぎて苦労してますが、DJNu-dohや歌手の堀内歌奈子氏に助けられ何となくチャンプルーなチュラシマスタイルが出来て来たように思います。 作り方は基本的に自分がリズムマシーン/シンセ/abletonLIVEでリズム&ベースを作りそこに歌や三線やダイホ(シネマダブモンクス)のインプロビゼーションをレコーディングしそれをNu-dohのジャッジメントを通し再構築するという流れです。 最近は伝統的な民謡定番曲等もやってみてますがアレンジメントで今の沖縄のカオス(これを読まれている方がどのくらい沖縄の問題をご存知かはわかりませんが。)をぶち込み昇華させるべく日々四苦八苦しております。 よくある沖縄=楽園的な要素は極力排除しようとしています。


4.毎年各地をDJで回っていますが、沖縄と内地(本州)とでフロアの違いや雰囲気など、何か気付く事はありますか?
A.沖縄は繁栄していた頃のアメリカの影響が強く、良くも悪くもディスコ的。知っている曲がかかれば皆で盛り上がります。リクエストに答えないとヤバイ場面もあります。そしてご存知のように酒の量もハンパなく意外と早く潰れるので朝4時5時までダンスというのは少ないですがジャンル分け以前のミクスチャーなフロアは素晴らしいです。 内地はやはり90年代クラブやレイブが盛んだったのでアートな表現の要素が強くお客さんもそれをストイックに楽しんでいるように思います。 ストイックなので音響、照明、映像、演出等は繊細に進化していますし、音楽に良い意味でマニアックだと思います。
5.今回のマスタリング然りエンジニアとしての顔もありますが、そういったノウハウは何処で学ばれたのでしょうか?
A.まず自分がエンジニアだと言うのは僭越ですが、その道に入ったきっかけは20代前半バイト先のP.A.だった福原氏(当時ボアダムズのP.A.)の影響が大きいです。 ひたすら福原氏のやり方を盗むべく働いてました。。 その後SOFTのP.A.だった今は亡きアコースティックの小野志郎氏とMMUの三浦氏、LIFEFORCEの浅田泰氏、等、幸運にも偉大なエンジニア氏と現場を共に出来る機会が数多くあり自身のライブやDJが有るにもかかわらずその都度お邪魔虫的に手伝いながら教えて頂きました。沖縄に来てから働かせてもらったステージングオキナワの激ハードな現場からも多くの事を学びました。 スタジオワーク/制作に関してはSOFTのMIXを一緒にやらせて頂いた内田直之氏、サウンドチャンネルのボスTAIYO氏、そして日本エレクトリックダンスミュージックのオリジネーターARTMAN a.k.a DJ KUDO氏等の仕事を見せて頂きこれまた見よう見まねで真似ていました。 特にAOAの制作を共にしたサイハーモニクス-オーストラリアのエンジニア/アーティストの「サイモン a.k.a.HESIUS DOME」氏には本当に多くの大切な事(基本から裏技まで)を教えて頂きました。 幸運にも多くの先輩に恵まれたという訳ですが、まだまだ未熟なので修行したいと思っています。特にマスタリングの世界をもっと学びたい。
6.現在は沖縄のOTOBOLAにて毎月レギュラーパーティUREIを開催されてますよね。ローカルイベントにも関わらず毎月多数の集客を動員しているようですが、沖縄でシーンを作るという事、またUREI開催によって沖縄のパーティシーンにどのような事を齎したいとお考えですか?
A.沖縄でシーンを作るという件ですが、自分の役目は終わったのかな〜と感じています。。 UREI@OTOBOLAに関しては後輩の育成という部分が大きいとは思うのですが、そんな事より自分が足りていないのでPARTYに限らずもっと音楽の経験を積みたい!といったところでしょうか。

7.最後に、今後の活動や展望について。
A.とっても時間がかかっていますがチュラシマのアルバムをリリースしてアジアツアーをやりたいと考えています。 メンバーが各自超忙しいので奇蹟がおこれば実現します。
有難うございました。 INTERVIEWER:DOPPELGENGER



DJ SINKICHI PROFILE
SINKICHI (budryukyu/Futurology/UREI/Churashima Navigator) 80年代後半よりパンク/ハードコアに影響を受けドラマーとし音楽活動を開始。 DJとして90年代のテクノ/レイブ黎明期に関わる。 同時期ドラムス/エレクトロニクス/ターンテーブルを駆使し京都の『SOFT』や『BOREDOMES』のメンバー等とのユニット『AOA』の中心メンバーとして活動。 2007年より沖縄にに活動拠点を移す。 近年は『OUTDRAW Remixes』や、イスタンブールの『Yakaza_Ensemble』等にリミックスを提供。 現在、コザOTOBOLAでのマンスリーパーティー『UREI』や、沖縄県内最大級のベースミュージックパーティー/レーベル『bud ryukyu』をオーガナイズし、『DJ Nu-doh』とのユニット 『Churashima Navigator(美ら島ナビゲーター)』にてライブや楽曲制作を行っている。 http://www.mixcloud.com/SINKICHI/

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