2014年11月27日木曜日

interview : O.N.O (TBHR.STRUCT)


O.N.O (TBHR.STRUCT)
道無き道を切り開くが如く突進する猛獣のようなドラム達を世に放ち、他の追随を全く寄せ付けない完全オリジナルなビート職人。現在までに"THA BLUE HERB"とソロプロジェクト、合わせて10枚のアルバムを発表し、シーンの中枢を鋭く抉る独自の楽曲群を生み出し続けている。あらゆる音楽と現場を通過し選び抜かれたインスピレーションは、その感性とマシンを経て"O.N.Oビーツ"へと昇華され、MachineLiveと名付けられた、機材と肉体との有機的な合奏によるライブパフォーマンスに結実し、全国各地のフロアでビートジャンキー達に絶叫と熱狂を巻き起こし続けている。



◎はじめに
自分がO.N.Oと確かに繋がったのは、2年前に地元大宮で開催したMammoth Dub2周年の時に氏をゲストに招聘したのが始まりだった。20代前半の時には既にTHA BLUE HERB、そしてO.N.Oのソロライブを観に行ったりと、既にその存在は漠然と在った。新宿LOFT、LIQUIDROOM、DJ KRUSH,ABSTRACT…今、知恵の輪を聴きながら当時の熱いシーンを思い返している。それから約10年が経過し、こうして今回共作を作れるとは当時の自分は思っても居なかった。
それを思うと自分はDJ KRUSH、そしてTHA BLUE HERB、O.N.Oの存在は確かな影響を受けてきていると確信したし、今こうして彼等“先駆者”と話が出来る事に感謝している。
貴重なO.N.Oへのインタビュー、とくとご覧あれ。


1.まずは音楽遍歴から伺いたいのですが、THA BLUE HERB(以下TBH)に至る前はどのような活動をされてたのですか?それから今迄の経緯をお話下さい。

O.音楽の入り口がHIP HOPで93~4年頃からアパレルで働きながらDJをはじめて、そこでBOSSと知り合って97年にTHA BLUE HERBって感じかな。
その頃中学生のDJ DYEもよくCLUBに遊びにきてましたね。自分の学生時代は友人のバンドを聴きに行く程度で音楽を熱心に聴いてたとかは無いですね。

2.というと、既に今から20年程前にはTBHのメンバーは出逢っていたんですね。
それから20年、今や日本を代表するヒップホップグループへと登り詰め、日本全土を今でも湧かし続けている事に心からリスペクトです。
O.N.Oさんのライブを初めて観たのはもう10年?前に新宿LOFTで拝見させて貰いました。あの頃はMPC4000を使ってのライブでしたね。フロアの盛り上がり素晴らしかったです。今でも主にハード機材を用いての制作、ライブを行ってますが、ハードに対するこだわり等があれば教えて下さい。

O.LOFTであの頃よく LIVEしてたよね。BPMも遅めで今ほどフロア寄りじゃ無かったけど狂ったように盛り上がってたのをよく覚えてますね。機材は別にハードだけにこだわってる訳ではなくて、制作ではソフトもハード関係無しに使いますね。LIVEでも操作がたのしいコントローラーなら特にこだわりもないです。でもデザインはカッコ良いのがいいよね。まじめな話ハードからDAWに移行する中でその中間に位置するビートメイカー達は機材のチョイスに悩む時期が長かったと思うんだよね。ハードで可能だった事がソフトで出来ない場合も多いからね。自分も悩みながらもスタイルを変えて制作に時間を使うようにしていますね。いつも同じ作り方じゃ飽きちゃうからね。
3.確かに。DAWの登場で制作スタイルに悩んだのは自分もあったし、使いこなすまでに時間も費やしましたね。今でも完全なる解決には至らないし試行錯誤の日々ですが、結局は良いものが出来れば良いという答えに辿り着き、自分もそこまでハードだソフトだってこだわり無いですね。
さて、僕から見た20代の時の当時の状況として、DJ KRUSHがTBHをプレイした事で一気にその名は轟いて行ったように見受けました。そのKRUSHのミックスCD「CODE4109」に収録されている「知恵の輪」は当時相当な衝撃を喰らいました。
先に申し上げた新宿ロフトでのライブでもライブバージョンでプレイされてたのを今でも覚えてるぐらい好きな曲ですね。
TBHはO.N.Oさん的に当時はどんな思いで活動されてたのですか?BOSSさんの文献は良く読んでいたのですが、O.N.Oさんの言葉はそれほど見かけなかった(僕のチェック不足かもしれませんが)ので、改めてお話頂けますか?



O.知恵の輪はTBH2枚目シングルであの曲を作った時は2人とも”これはヤバい曲が出来たっ”と確信して世に出したんだけどしばらくは全く反応がなかったですね。自分たちはあの曲に自信があったのでみんなが理解出来ない事に驚いてました。で、結局DJ KRUSHがプレイする事で徐々に浸透していって「CODE4109」で決定的になったんだけど、その頃にはもうTBHの1stアルバムが出て2年は経っていたからTBHは各自すでに2ndの制作に入ってて、、結局国内の評価というか理解は3年遅れくらいで来るんだなと思って自分の感性だけで作る事に没頭出来ましたね。 

4.それだけ長い間眠っていた曲が3年遅れで評価され、しかもそれが爆発的人気になるって事が凄いですよ。それだけ最先端で、当時のリスナーレベルを超えてた曲だったんだろうし、3年後に時代が合わさったのはある意味必然だったのかもしれませんね。如何せん、そこでの評価が後のTBHに拍車をかけた事でしょう。
O.N.Oのソロでの活動において、TBHのイメージであるHIP HOPとは完全に別路線を確立されたかと思います。onomonoで表現されたミニマルテクノやO.N.O a.k.a Machine Liveのbpm110前後のブレイクビーツ、このようなスタイルに成るまでにどんな音楽に影響され、今のスタイルを編み出したのでしょうか?
O.自分の中ではTBHこそがHIP HOPなんでソロもHIP HOPの延長上ではあったんだけど、当初から他ジャンルからの支持も沢山もらっていたし交流が深まる中で自然と別路線が出来ていったのかもしれないですね。フレーズをサンプリングするだけの手法もTBH1st制作時からつまらないと感じてました。DJをしなくなってTBH2ndの延長上でソロ1stを作り現場でライヴをするようになってから、フロアを意識する今のスタイルになって徐々にブレイクビーツ的な展開からミニマルなビートまで両方自由に作れて踊れるBPM110に行き着いた感じですね。LIVE中心の活動になってDJユースにBPMを考えなくて良くなったのもBPM110に行き着いた理由かもしれない。まっ、結局DJしたくなってonomono名義のミニマルテクノ路線も作り出すんだけどね。笑

5.自分から見たらライブもDJも、フロア体感というかグルーヴはやっぱO.N.O節を感じるし、どっちも素晴らしい表現ですよ。
さて全国各地、随所でO.N.Oの名前を見ます。全国各地を毎週のように飛び回ってますが、年間何本ぐらいライブをされているのですか?あと、日本各地のクラブシーンを見て何か思う事があればお話下さい。

O.Machine Liveは年間50位かな。それ以外でonomonoでDJもやらせてもらっています。やっぱり各地にそれぞれ波はありますよ。しばらくプレイに行けてない街もあるし、相変わらずアツい街もある。あと急に勢いが出て来たように感じる街もあるけど、そういう街はやっぱり中心になる人達が長い間じっくり育ててきた結果だったりして。パーティーは準備から長い時間かけて作るものだからそこに呼ばれてその瞬間にステージに立ったときは全力で挑みたいと思ってます。超当たり前の話なんだけどね。

6.確かに、ローカルのキーマンは重要な存在ですよね。下地を作る人が居なければその土地のシーンも出来ない、畑作るのと一緒だと思います。そこが出来てる街は、やはり良いシーン、アーティストを輩出してると思います。札幌もそれを感じますよ。
さて、今年に入り自身のlabel「STRUCT」を立ち上げ、日本各地のアンダーグラウンドなアーティストを輩出していってますが、発足のきっかけ、またその意図についてお話下さい。












O.普段は現場でしか音楽をインプットしないんで各地や各イベントではなるべく共演のライヴなどは観るようにしてて、やっぱすげーカッコいいアーティストがいっぱいいるんだよねっ。もっといろんな環境や音響で聴いてみたいと思うアーティストに声をかけてます。若手をフックアップするとかそんな大層な理由は全然なくて、単にアーティスト同士つながったりできればアピール出来る環境が広がるだろうなという考えです。アンダーグラウンドなアーティストは大好きだけどそれを専門に輩出するレーベルとかじゃ無いです。基本はO.N.Oの好みですね。ベテラン勢にもお願いして参加してほしい企画もあります。

7.なるほど。そうしたら、今後のリリースの人選、アプローチも楽しみですね。
今回GURUZのコンピレーションASYLUMに参加して、ベースミュージックという枠に自分を置いてみて何か思う事はありましたか?僕の印象だと、O.N.OさんはBPMが140であろうとO.N.Oという確かな色に濁りを感じなかったとこに感銘しました。STRUCTを見てても、もはやジャンル云々では無く純粋にカッコいい音への追求を感じますが、O.N.Oさん的には自身のジャンルやスタイルを意識する事はありますか?

O.このJUKEかっこいいなとか、これはダブステップ寄りのミニマルだなとか頭の中でジャンルを元に聴いたりするけど、DJツールとして作ったり使ったりする時はBPMを意識する事の方が多く、ベースミュージックに関してはあの辺の周波数を中心にカッコいいという漠然としたイメージだけだったので、今回のDOPPELGENGERとの共作はベースミュージックを意識する機会として実りが多かったですね。特にベースの鳴りに関しては2人けっこう衝突しましたからね笑
GURUZもそうだと思うけど、STRUCTのリリースに関してもジャンル的なものより自分の音をどれくらい突き詰めてるかが大切ですよね。そのアーティスト自体がジャンルという考え方はGURUZと同じだと思います。


8.自分は衝突というか、自分は普段意識してない帯域を出してくるから驚いてた感じですよ。笑
それだけ自分の固定概念に縛られてたと思うし、作った曲を箱で鳴らして、あぁこういう風に鳴るんだなって。一概にベースと言えど、50~200hzあたりまでの何処をチョイスするかってジャンルで違うし、今回そこで多くの発見があって楽しかったし、O.N.Oさんが居なければこんな曲は間違いなく出来なかったでしょう。まさに新次元突入させて貰いました。
来年はどのような予定が入ってますか?また目標や展望があればお話下さい。

O.年末に向けてもほぼ毎週LIVEとDJが入ってるので名前を見かけたら是非遊びに来て下さい。
9.最後に12/22 ASYLUM in KOZA vol.2に向け、沖縄の皆さんに一言。
O.久々の沖縄ですね。今回はDOPPELGENGERと一緒ということでキレっキレっでドカドカで弩ドープな夜が決定してるので楽しみにしていて下さいっ。


◎あとがき
文中であったように、O.N.Oさんはその存在がジャンルという言葉が正に当てはまる人物だろう。年間50本を超えるギグ、全国各地を毎週飛び回っている。それも、40キロを超える機材を転がしながら各地のサウンドフリークを唸らせ、そして誰よりも一番現場の楽しみ方を解っていると思う。
北海道という北の大きな島、自分はこれまでに4回程行った事があるが、彼等の育った箱であるPrecious Hall、Philmore Spaceはとても素晴らしいクラブだった。
勿論THA BLUE HERBの出現は自分にとって革新的な事だったし、今でも更なる高みを目指す姿は大きな励みになっている。そしてTBHのトラック制作をやりつつ、自身のソロ活動を続けるO.N.O。これからのリリースが楽しみでならないし、一体どんなアプローチが。
12/22の沖縄での共演も楽しみです。北海道、関東、沖縄の素晴らしいアーティストが一同集結!間違いない、というか未知なる次元を垣間みるでしょう。
では、O.N.Oインタビュー、読んで頂いた皆さん有り難う御座いました。

2014年11月18日火曜日

interview : HARIKUYAMAKU (TOWER OF DUB RECORDINGS)

HARIKUYAMAKUと出逢ったのは今から1年程前の夏。彼のスタジオに1ヶ月寝泊まりしながら沖縄ローカルを思い切りマンキツさせて貰った。
知れば知る程、摩訶不思議な沖縄の人、風習、文化。内地の自分から見た沖縄は異国であり、その沖縄にスタジオを構え活動を行っている彼にインタビューした。

彼と共通するキーワードとして、「旅」がある。
彼も世界各地を旅しており、そしてその旅路は「快楽」「逃避」といった軟派なものでは無く、「追求」という言葉が当てはまるだろうか、自ずとハードコアな道を選んできてる事。20代中盤の若者でここまでの足跡を刻む者は、自分から見たら非常に稀でユニークな存在だ。そこに共感し、彼の旅の話からアーティスト活動について、幅広く聞いてみた。

interview by Doppelgenger



D.以前イースター島で一ヶ月テント生活してたみたいだけど、一体毎日何してたの?

H.皆既日食が目的で訪ねたんだけど、魔女みたいな人が住む家の土地にテントを張らせてもらって、家の手伝いや、そこで開催するっていうパーティーの設営とかして過ごしてました。イースター島独自の風よけの石垣を作ったり、牛の解体を手伝えたりと、かなり貴重な体験ができました。天気の悪い中、薪を集めて火をおこすことから料理が始まり、夜は大体それだけ。パーティーは、ほんとはチリのパーティーオーガナイザーがShpongle等の豪華なゲストを招いて色々と段取りしてたんだけど、直前に色々あってばっくれて。それでも集まった世界中の強者達とDIYでパーティーをつくって、ハードなダンスミュージックだけで確か7日間。皆既日食も見れて、とにかく映画みたいな毎日でした。

D.7日間。。。凄いね。バーニングマン並みだし色々と桁が外れてるね。
その後、四国のお遍路を回ってきたようだけど、その意図は?

H.旅から沖縄に帰るまでまだ時間があったんだけど、イースター島での体験が強烈すぎて、外国とか、新しい外からの刺激とかがもう要らないよっていう状態、抜け殻みたいになったんですよ。それで、心の旅みたいなのができたらなーと思って、お遍路だ!ってなりました。あとは、自分の精神的な甘さを叩きたかったのもありました。今思えば成人式のようなイベントでした。



D.そこでお遍路を選ぶのもちょっとおかしいよね。笑
他にもインドやタイ、オーストラリアなんか旅してたよね。
何か忘れられない旅の瞬間とかある?

H.ラオスの人里離れた山奥でバイクで事故、正面衝突。相手はさっそうと去っていき。動かないバイクとぽつんとなって、とりあえず一服した時のことは忘れられません。それに皆既日食は今でも目に焼き付いてます。

D.生きてて何よりだね。思うけど人間1回は死にかけると、人として一皮剥ける。
だからって死ぬような事はしない方がいいとは思うけど、命ってものに一回自分が向き合う機会って大事だと思うな。身をもってね。体験は着実に糧になるよ。
さて、HARIKUYAMAKUとしての活動は主に沖縄民謡のサンプリングから成り立つものだけど、いつ頃から民謡を集めだしたの?
また、どのように今のライブスタイルに辿り着いたのか。

H.2010年頃お遍路から帰ってきてからです。外国-日本-沖縄と移動する中で、自ずと興味が湧いてきて、集めるようになりました。
DUBにたどり着いたのは色んなきっかけがあったのですが。以前は自分の作った曲の表現に悩んでいて、当時DJをやることには興味は無くて、演奏をしたいって思いが強くありました。自分で作ったトラックをフェーダーやエフェクトで解体していくDUBは、トラックを作ることと、それをさらにライブで加工できるっていう二重の楽しみがあって、ぴったりハマりました。また、沖縄民謡を聴きだしたタイミングと、レゲェを教えてもらったタイミングってのが同時期で、沖縄民謡に感動しながら、オールドスクールなダブに感動してました。その2つを合わせてみようっていうアイディアでした。

D.アルバム【島DUB】リリース後、日本各地のクラブやフェスを回ってたけど、沖縄と内地との差や違い、他にも感じた事があれば。

H.内地ではミュージシャンやDJの行き来がすごい頻繁で、やっぱり陸で繋がっているっていうのは羨ましく思えました。沖縄は沖縄ならではの外との繋がりってのをつくっていけたら面白くなりそうですね。今は台湾との行き来がとてもやりやすくなっていて、沖縄のミュージシャンでも台湾を訪ねる人も増えてきてます。自分も台湾との繋がりを来年はつくっていきたいです。

D.前身名義である58についてだけど、それについて、また58は今後またやるのかな?

H.58は以前やっていたバンドを辞めてサンプラーでトラックを作っていたころからの名前です。実は2010年くらいにCDR音源も出したこともありましたが、今は特に動いていません。58名義での曲は実はたまに作っていて、いつかまた発表できたらと思っています。

D.自身が所属するバンド銀天団について(残波ジャム出演おめでとう!)。
発足から今後の展望を。




H.銀天団は、結成して約2年。初期はひたすらジャムセッション、ルーツレゲエに集中していた時期もあったりでした。ついこの間の残波JAMを機に、最近ようやく自分たちの音っていうのができてきて、まさにこれからが楽しみです。来年には音源をリリースして、内地にもツアーに行きたいです。

D.自身のスタジオTOWER OF DUB STUDIOについて。また住んでる銀天街は内地では考えられないぐらい謎の人だらけで、かつ愉快で才能溢れる仲間が近所に沢山居るんだけど、もともとそういうコミュニティがあったの?それとも自分達で作り上げたの?

H.銀天団を結成して最初の作業は、曲作りの前にスタジオ作りでした。TOWER OF DUB STUDIOができて、それから間もなくして友達がお店をオープンしてという感じで仲間が集まってきたという感じです(秀超が営むカフェ、たいら洋品店)。銀天街はとにかくみんなの集合場所っていう感じで、いつもの仲間から初めて会う人から、色んな人が集まってくるので面白いです。ここ最近は、銀天街に拠点を置く星屑工務店といって、内装などの現場仕事なんですが、みんなで仕事までやっていますよ。



D.いいね。スタジオから寝場所、遊び場や仕事場まで。あの小さな商店街で全てを賄ってるのは凄いよ。
ところで好きな食べ物は?

H.普段何気なく食べていた島豆腐が、豆腐屋さんによってこんなに味が違うのか!ってことに最近気づいてしまって。島豆腐にはまってます。

D.俺は近所の丸長食堂のすきやき定食だな。あとOTOBOLA近くの喫茶フリーダムのステーキ。
それじゃ、今後の展望について。

H.冬の間に作品をつくって、また年が明けたら内地にツアーできたらと思ってます。あと台湾。

D.ありがとう!それじゃまた12月のASYLUM in KOZAで逢いましょう。



HARIKUYAMAKU SOUNDCLOUD
https://soundcloud.com/58makoto

◆harikuyamaku (ハリクヤマク)
1989年沖縄生まれ。
コザ銀天街、Tower of Dub studioを拠点に活動するトラックメーカー/ダブエンジニア。14歳の頃からベーシストとして音楽キャリアをスタートさせ、2007年から、58名義でトラックメーカーとして活動を開始。2012年、アジア~ポリネシア各地の放浪、四国八十八カ所霊場巡礼の後、自らのルーツである琉球を意識するようになり、琉球民謡の7inchレコードを収集し始める。ちょうど同時期にreggae/dubの洗礼を受け、集めた古い唄を基にHarikuyamaku名義の楽曲「島DUB」の制作を開始する。生身の音、デジタルとアナログのバランスを重要視しており、ほとんどの音が演奏によってプログラミングされている。ライブではそれらの音を、アナログ回路によってリアルタイムでダブワイズし、曲の脱構築、再構築をしながらサイケデリックな音景を創り出す。2013年春、コザにそびえる銀天街タワーを自ら改築し、Tower of Dub studioを完成させる。その後、そこで集まったメンバーでdub / jamバンド「銀天団」を始動させるとともに、コザ音洞にてオルタナティブなパーティー「PAGAN DANCE」を開催。すでにこれまで、DJ YOGURT、DJ Doppelegenger、Toshio-BING-Kajiwara、KOR-ONEなどのゲストを招いている。7月には、沖縄を代表する野外パーティーMessage of Loveでオープニングアクトとして出演。 




◎後記
これはざっくりとこれまでの彼と過ごした時間の中で知った事を聞き出した次第。他にもここじゃ言えないような面白い話が沢山あって。それはリアルに自分やHARIKUYAMAKUから聞き出して欲しい。そして沖縄に行く機会があれば是非、コザ十字路にある銀天街を訪ねてみると良い。那覇とは全く異なる、ローカル沖縄の奥深さを体感出来るはず。特に旧盆は三日三晩エイサーが鳴り響き、そこは内地の世界とは別世界の沖縄・日本を見る事が出来る。そして先にインタビューしたSINKICHI氏にも遭遇するであろう。
今回リリースしたV.A/ASYLUMでHARIKUYAMAKUの音を聴いてみて欲しい。そして彼のアルバム「島DUB」も是非。日本全国見ても、彼の音は彼にしか作れないし、唯一無二な音、存在に気付くだろう。
今回こうして同じCDで共演出来た事を嬉しく思う。そしてこれからの彼の活躍を期待している。
興味を持った方は是非12/22@otobolaで開催されるASYLUM in KOZA vol.2へ!




V.A/ASYLUM好評発売中!
http://guruzrecords.cart.fc2.com/ca0/16/p-r-s/

2014年11月6日木曜日

interview : SINKICHI(budryukyu/Futurology/UREI/Churashima Navigator)


自分がSINKICHIさんとお会いしたのは、1st Albumリリースツアー時でした。 沖縄唯一のベースミュージックイベント、BUD RYUKYUでしたね。 それから約2年半、今回こうしてGURUZのコンピレーションに収録出来た事、そしてマスタリングも手掛けて貰った事、とても嬉しく思ってます。
それでは、質問に入ります。

1.現在、沖縄に居を構え音楽活動に従事されていますよね。 出身は京都ですが、沖縄に移住されたのは何か理由があるのでしょうか?
A.1999年末のミレニアムに沖縄の辺戸岬で開催された「SUNSHINESHRINE IN OKINAWA」というPARTYに当時やっていたSOFTで招かれ、その前後一ヶ月程の沖縄滞在で完全にやられましてこの島に住もうと決めました。 というか、来なさい〜という感じでした。それから7年もかかりましたが。。。
2.遡るとこれまでに京都を代表するバンドSOFTのドラマー、AOA、そして数々の国内外のフェス、パーティ経験を経て現在はDJ NU-DOHと共にチュラシマナビゲーターの活動という経緯がありますが、そういった音楽的な自身の歴史から現在までの気持ちの変動(音楽性の変化等)についてお話頂けますか? ベースミュージックという視点も含めて、お話頂ければと。
A.小学生の頃から父にMILESDAVISやPINKFLOYD等を聴かされていたのですがまだその頃は「オーディオ/ステレオって面白いなあ」程度にしか感じていませんでした。 初めて音楽にハマったのはYMOのBGM/テクノデリックとハービー・ハンコック/ロックイットでした。 その後いろいろありまして一気にパンク/ハードコアにどっぷりで気がつけば周りは全員パンクス/スケーターみたいになる中で繋がった友達や聴いている音楽/アーティストから様々な社会問題(戦争/核/貧困/環境問題)やアナキズム、ラスタファリズムを知りました。ぺーぺーのパンク少年だった訳です。。 転機は90年代初頭にイギリスやアメリカに行った際、レイブやサウンドシステムを体験して一気に気持ちがポジティブになったというか、日本ではパンクスが未だラモーンズやクラッシュの真似事をしている時にUKのパンクスはACID HOUSEで笑顔で踊っている、という有る意味パンクな事にアナーキックさを感じました。 その頃から日本でもエッジなクラブでテクノやジャングル等が聴けるようになりどっぷりそこに浸かりながらSOFTに参加する事に。 DJはまだ自分にとって敷居が高かったのでロックバンドにテクノ的な要素を持ち込もうとした訳です。 その後国内でもレイブ/ダンスミュージックが盛んになりはじめSOFTやAOAで人前で演奏させてもらえるようになり数多くの素晴らしいDJに出会い音楽の幅が急激に広がっていきました。
ベースミュージックという視点なのですが、やはりまずはサウンドシステムありきですね。 長年でかいサウンドシステムのベースで踊る体験を通して自身の音楽的趣向がかなり低音よりになってしまいましたが、最近は小さいスピーカーや生音で成立する音楽が好きです。鼻歌で歌って踊れるような。

3.チュラシマナビゲーターの音楽性ですが、コンピ収録曲も然る事ながらライブでも三線に歌と沖縄のエッセンスが随所に盛り込まれていますが、こういったアプローチはやはり沖縄に住んでいるから得たインスパイアと言えるのでしょうか? また、チュラシマナビゲーターとしてのスタンスや制作スタイルについてもお聞かせ下さい。
A.民謡やエイサーはここでの生活とは切っても切れないもので日常的にいつも響いています。そして相方のDJNu-dohは生粋のウチナンチュなのでやはりどうしても唄三線が入ってきますね。 琉球音楽はあまりにも奥深くナイチャーの自分には今だ未知の領域が大きすぎて苦労してますが、DJNu-dohや歌手の堀内歌奈子氏に助けられ何となくチャンプルーなチュラシマスタイルが出来て来たように思います。 作り方は基本的に自分がリズムマシーン/シンセ/abletonLIVEでリズム&ベースを作りそこに歌や三線やダイホ(シネマダブモンクス)のインプロビゼーションをレコーディングしそれをNu-dohのジャッジメントを通し再構築するという流れです。 最近は伝統的な民謡定番曲等もやってみてますがアレンジメントで今の沖縄のカオス(これを読まれている方がどのくらい沖縄の問題をご存知かはわかりませんが。)をぶち込み昇華させるべく日々四苦八苦しております。 よくある沖縄=楽園的な要素は極力排除しようとしています。


4.毎年各地をDJで回っていますが、沖縄と内地(本州)とでフロアの違いや雰囲気など、何か気付く事はありますか?
A.沖縄は繁栄していた頃のアメリカの影響が強く、良くも悪くもディスコ的。知っている曲がかかれば皆で盛り上がります。リクエストに答えないとヤバイ場面もあります。そしてご存知のように酒の量もハンパなく意外と早く潰れるので朝4時5時までダンスというのは少ないですがジャンル分け以前のミクスチャーなフロアは素晴らしいです。 内地はやはり90年代クラブやレイブが盛んだったのでアートな表現の要素が強くお客さんもそれをストイックに楽しんでいるように思います。 ストイックなので音響、照明、映像、演出等は繊細に進化していますし、音楽に良い意味でマニアックだと思います。
5.今回のマスタリング然りエンジニアとしての顔もありますが、そういったノウハウは何処で学ばれたのでしょうか?
A.まず自分がエンジニアだと言うのは僭越ですが、その道に入ったきっかけは20代前半バイト先のP.A.だった福原氏(当時ボアダムズのP.A.)の影響が大きいです。 ひたすら福原氏のやり方を盗むべく働いてました。。 その後SOFTのP.A.だった今は亡きアコースティックの小野志郎氏とMMUの三浦氏、LIFEFORCEの浅田泰氏、等、幸運にも偉大なエンジニア氏と現場を共に出来る機会が数多くあり自身のライブやDJが有るにもかかわらずその都度お邪魔虫的に手伝いながら教えて頂きました。沖縄に来てから働かせてもらったステージングオキナワの激ハードな現場からも多くの事を学びました。 スタジオワーク/制作に関してはSOFTのMIXを一緒にやらせて頂いた内田直之氏、サウンドチャンネルのボスTAIYO氏、そして日本エレクトリックダンスミュージックのオリジネーターARTMAN a.k.a DJ KUDO氏等の仕事を見せて頂きこれまた見よう見まねで真似ていました。 特にAOAの制作を共にしたサイハーモニクス-オーストラリアのエンジニア/アーティストの「サイモン a.k.a.HESIUS DOME」氏には本当に多くの大切な事(基本から裏技まで)を教えて頂きました。 幸運にも多くの先輩に恵まれたという訳ですが、まだまだ未熟なので修行したいと思っています。特にマスタリングの世界をもっと学びたい。
6.現在は沖縄のOTOBOLAにて毎月レギュラーパーティUREIを開催されてますよね。ローカルイベントにも関わらず毎月多数の集客を動員しているようですが、沖縄でシーンを作るという事、またUREI開催によって沖縄のパーティシーンにどのような事を齎したいとお考えですか?
A.沖縄でシーンを作るという件ですが、自分の役目は終わったのかな〜と感じています。。 UREI@OTOBOLAに関しては後輩の育成という部分が大きいとは思うのですが、そんな事より自分が足りていないのでPARTYに限らずもっと音楽の経験を積みたい!といったところでしょうか。

7.最後に、今後の活動や展望について。
A.とっても時間がかかっていますがチュラシマのアルバムをリリースしてアジアツアーをやりたいと考えています。 メンバーが各自超忙しいので奇蹟がおこれば実現します。
有難うございました。 INTERVIEWER:DOPPELGENGER



DJ SINKICHI PROFILE
SINKICHI (budryukyu/Futurology/UREI/Churashima Navigator) 80年代後半よりパンク/ハードコアに影響を受けドラマーとし音楽活動を開始。 DJとして90年代のテクノ/レイブ黎明期に関わる。 同時期ドラムス/エレクトロニクス/ターンテーブルを駆使し京都の『SOFT』や『BOREDOMES』のメンバー等とのユニット『AOA』の中心メンバーとして活動。 2007年より沖縄にに活動拠点を移す。 近年は『OUTDRAW Remixes』や、イスタンブールの『Yakaza_Ensemble』等にリミックスを提供。 現在、コザOTOBOLAでのマンスリーパーティー『UREI』や、沖縄県内最大級のベースミュージックパーティー/レーベル『bud ryukyu』をオーガナイズし、『DJ Nu-doh』とのユニット 『Churashima Navigator(美ら島ナビゲーター)』にてライブや楽曲制作を行っている。 http://www.mixcloud.com/SINKICHI/